檸檬と猫
檸檬が甘いとは思わなかった。
そんなふうに少女が感想を述べると、老人は小さく笑い声を立てた。「そりゃあ、そうさ。こいつらの黄色は、お天道様とおんなじ色さ。しっかりしたもんだ」愉快げに、しかし誇らしげな様子で胸を張って、そういうことをいった。
少女のずっと背後には、列車が一台、のっそりと停車場にとまっている。ふもとの街へ下る列車は、日に一本限りだったけれども、いつもここで二十分あまりを休んでいくのだった。とはいえ、車掌が会うたびごとにぼやくように、山奥の小さな山岳路線など、利用客は数えるほどで、そもそも停車場の改札を出て歩きまわる、少女のような乗客はたいそう珍しかった。
その少女はいつの間にやってきたのか、少し離れたところから、老人が黄色い檸檬をもいでいくのをじっと見つめていたのだった。歳は十四、五のほどだろうか。その真剣な眼差しや、また檸檬をひとつ差し出してやると、ぎこちなくそろそろ手を伸ばした仕草に、まるで慣れない猫のようだな、と老人はちらと思ったが、そのくせ、どこの国の者なのか見た目には分かりにくい。深い青色の目をしていて、お前さんみたいな天気を見たことがあるよと老人が言うと、ちょっと小首をかたむけて、そのとき初めて笑ってみせた。
聞けば、彼女は山向こうから来たのだという。
「一人かね」
「ううん、ふたり」
列車の中で待っている、と、檸檬をかじりながら簡潔な話しかたである。しかし、ふたり、と指を立てて見せた笑顔が、晴れわたる空の下にたいそう透きとおって映った。
「どこまで行くのかね。帝都かい、ふもとから路線が伸びたというから」
「しらない。あたし、はじめて列車に乗ったの」
「そりゃあいい。列車というやつは。しかしまあ、煙を吐かなきゃ、もひとついいな」
「おじいさんはこの辺に住んでるの」
「生まれてこのかた、ずうっとだ」
ざわ、ざわ、山肌を撫ぜながら風は木立ちを吹き抜けてゆく。それが通りすぎるとき、ほのかに佳い薫りがした。「あ、さっき食べたのとおんなじ」少女のうれしそうな言葉に、ふ、ふ、と老人は笑った。(慣れれば、人懐こい猫だ。――)思ったが、声には出さなかった。
いつしか遠くのほうで汽笛が発車を告げた。少女は名残惜しげに立ちあがりかけ、それからふいにもう一度かがむと、「ありがとう」と、そういった。老人は、だまってその手のひらに大きめの檸檬を二つ三つ乗せてやった。
「お連れさんに持っていっておやり」
少女は笑顔を大きくした。だいじそうにそれらを抱えて、列車のほうに駆けてゆくのを、老人はその場にたたずみ、見送っていた。誰かが窓を開けていた。顔はよく見えなかったが、あれが連れかな、などと何となしに思った。
列車は停車場をすべり出し、やがて線路の奥へ消えた。風はなおも吹いている。老人は落ちていた檸檬をいくつか拾うと、みずみずしい果実をつけた木々のなかに、ゆっくりとした足取りで去っていった。
2011.05.04